現代地方譚カテゴリー: 現代地方譚10

GOLD SEES BLUE

 展示している映像作品と写真作品は、2022年に須崎に滞在し制作した作品です。 「GOLD SEES BLUE」シリーズは2009年から継続的に制作している作品シリーズで、その最新作を須崎で制作しました。

「GOLD SEES BLUE」は、金箔をフィルターにして撮影しています。金箔は青い光のみを通すという性質があり、金箔を使って撮影された写真や映像は透過光の青い光と、反射光の金色の光に満ちています。

 今回、須崎の自然と、須崎の高校生6人のポートレートをこの手法で撮影しました。いつもそこにある(あるいは、ゆっくりと時間をかけてかわって行く)須崎の自然の姿と、いまここにある(あるいは、日々変わっていく、そして、須崎を去っていくかもしれない)高校生の姿が、光に包まれています。おぼろげな光に包まれた映像や、写真は、ドキュメンタリー性が消失し、ある種の抽象性と普遍性に向かいます。しかし、その抽象化された姿からは、同時に、須崎という地が浮かび上がってきます。

 須崎の自然と須崎の高校生の映像を通じて「かわるもの」「かわらないもの」を映し出し、そして、それにより「その中間にある私たち」について思いを巡らせています。(田中和人)

 

GOLD SEES BLUE (SUSAKI SLIDES)
2022、Video (with sound)、21分24秒(ループ)

 

GOLD SEES BLUE (WAVE_SUSAKI)
2022、Video (with sound)、11分7秒(ループ)
GOLD SEES BLUE (SUSAKI)
2022, Pigment print, 各325x480mm

GOLD SEES BLUE (SUSAKI)
2022, Pigment print, 各325x480mm

GOLD SEES BLUE (SUSAKI)
2022, Pigment print, 各325x480mm

 

 

須﨑滞在記

 

旧須崎町時代の名士、寺尾豊を曾祖父に持つ寺尾紗穂。
須崎で10回目を数える開催となった現代地方譚で、この町に所縁のある寺尾氏を招聘し、今の彼女の目に須崎や須崎の歴史がどう映るかを見てみたいという純粋な興味から、今回の企画に至った。
初の須崎滞在となった今回、短い期間ながらも寺尾氏は自身の関心のあった神社や地域信仰・民話を手掛かりに、地元住民の話を聞き、またそこから派生して曾祖父の足跡も辿っていくこととなる。

展示では、滞在記に加え、道中に出会った鳴無神社の秋祭りで歌われる「ちりへっぽー」、そして須崎のわらべうた「とんぼ殺すな」の二曲を聴くことができる。

 

 

      

 

 

「ちりへっぽー」

2023、デジタル録音、3分10秒


 

川鍋さんと鳴無神社へ。社殿横の小山に階段をみつけ登ってみる。しばらくすると、あとから宮司一家がやってきた。小学生のお孫さんは跳び箱で骨折したとのことで松葉杖をついている。宮司さんが、秋祭りで歌う「チリヘッポー」を歌ってくれるというので録音させてもらう。宮司は「楽譜にできるようなものではない」とおっしゃったが、一聴して音符は浮かんでくる。追分のような歌唱の複雑さはないので、仮に譜面化はできそうである。「チリヘッポ―」は「千里八方」ともいわれると教えてもらう。
 松葉杖のお孫さんが、「あの山、木を払って海が見渡せるようにしたらいいんじゃけど」と言った。鳴無神社の目の前は穏やかな海だ。内海のような感じは、牛窓あたりの瀬戸内の景色を思い出す。秋祭りのときは、波際まで下りていって禊をするとのことだった。通常の鳥居のほかに、海の前にも鳥居がある。神社を背にすると海そのものがご神体のようにも見える。広島の宮島にも比されるそうだ。お孫さんは、以前行児役の子が急に出られなくなり、代役を任されたため「チリヘッポー」も歌えるという。海面をのぞき込んで「さみしうなったなあ」と言うのでどきりとする。年始で千葉からいとこたちが来ていたのが帰ってしまったという。自分が東京に暮らして普段は移動してばかりで、そういう感慨をあまり持ったことがなかった。去った人を恋う心の吐息のような少年の言葉が、やけに大切なものに思えた。
 その後、すさきまちなか学舎のシェアキッチンのピアノを借りて、宮司さんの録音させてもらった歌を聞きながら、音程と拍子をメモして左手をつけていった。キッチンではおそらくアップルパイを作っていて、りんごのいい香りがした。パイ生地を打つ音が録音に入っている。

 

     

 

「とんぼ殺すな」

2023、デジタル録音、2分1秒


 

 柳原書店から出ている園尾正夫・近森敏夫・吉良長幸著『徳島・高知のわらべ歌』収録の歌。高知のわらべ歌は一見して「からかい歌」が多い。それから、自然を歌った歌。これまで高知の「ちょうちょ」の歌はアルバムにいれていたが、トンボの歌もたくさんあった。最初は不殺生の心を教えるために大人が歌ったものだろうか。人間が死んだときの力の抜けた遺体を見た少年は、自らの手であやめたトンボの死骸の感触を思っただろうか。土トンボと呼ばれるトンボはないらしく、死んだとき生き物としてともに土に戻っていく人間とトンボを重ねる視点がここにあるのだと思う。本の解説によれば、「死んだ子供の化身」とも「盆にあの世から帰ってくる死者の霊を背に乗せている」とも聞かされたともいう。
 もとは短い曲で香美郡赤岡町の歌詞(「私が死んだらつちとんぼ」)と須崎市の歌詞(「私も死んだら土になる」)をくっつけて歌っている。

 

 

「須崎滞在記」


1月4日 

 行きの車の中で、川鍋さんのドイツ留学時代の学食の話を聞く。いろいろメニューはあれど、どれも、じゃがいも、キャベツ、ウィンナーの組み合わせで飽きるとのこと。日本ではまともな作り方のウィンナーはとても高いし自然食品店や通販でしか手に入らないので、日常的においしいウィンナーが食べられるのはうらやましいと思う。絵の好きな長女が留学なども興味がありそうなので、いろいろと話を聞く。昼はローソン向いのなべ焼きラーメン。そもそもは、港に帰ってきた漁師さんたちにラーメンを運ぶのに、温かいまま届けられるようにとなべ焼きの土鍋に入れるようになったとのこと。噛み応えのある細かく切った親鳥が入っているのが美味しい。長く育てる親鳥は都内のスーパーでは簡単に買うことができないし、B級といわれつつちょっと贅沢感があっていい。須崎図書館の郷土資料が置かれているコーナーは、なぜか幅が30cmの通路のところもあり、やっとのことでカニのように移動。下段の本をみたいときしゃがむといっぱいいっぱいでなかなか大変だった。明治期の古い雑誌が無造作に重ねられているかと思うと、厳重に棚に鍵がかけられて頼まないと見られないものも混在している。須崎市史も見当たらないとおもったら、閉架になっているとのこと。寺尾豊関係と、道祖神関係の論文を「須崎史談」からコピー。閉架から出してもらった『須崎市史』には寺尾豊について次のようにある。

 

 昭和十六年、須崎糺町に工業学校が設立された。当地出身代議士寺尾豊氏の寄付を受けた池内須崎町長外関係者の奔走によるものである。寺尾氏は建設資金だけでなく、戦時下で調達困難になっていた器具、機械をも提供した。

 

豊は高知工業学校の卒業だ。明治45年「一国の発展は、農をもって国を養い、工をもって国を富ましむ」と唱えて高知工業学校を建てた竹内綱、明太郎に倣って、須崎にも工業高校をと考えたのだろう。豊は昭和9年関東正機を作り、戦時中高知出身の海軍軍人の永野修身の仲介で、海軍に魚雷の部品を納入するようになる。永野は軍人の中では異色だった。優秀な指揮官を作るために昭和3年海軍兵学校長に就任すると、画一的な教育方針から自学自習のドルトン式に変え、体罰の禁止など改革も行った。ドルトン式とはヘレン・パーカーストが提唱した教育指導法で、大正自由教育運動に大きな影響を与えたとされる。永野は玉川学園の小原國芳、自由学園の羽仁もと子らとも交流があったというから驚きである。上官命令は絶対というイメージの軍隊の中で、この時期の海軍兵学校卒業生は上官への提案が多く、賛否両論を生んだという。もともと陸軍よりも海軍にリベラルなイメージがあったが、その下地づくりに永野の功績もあったのかもしれない。とはいえ自由主義的な教育法はのちの海軍には十分に引きつかがれなかったとされる。自由な気風を持った永野との繋がりはわかったが、豊が兵器の一部を作っていたことに違いはない。死の商人である。私はこのことについて苦い思いがあった。学生時代、中島敦「マリヤン」という作品を読んでから、日本が統治したサイパンやパラオでの聞き書きや、かつて移民として現地で暮らしていた日本人のインタビューを日本各地で重ねて本を二冊上梓した。戦争が深まると、南洋群島から日本への帰国船の多くはアメリカの魚雷で沈められるようになる。民間人もたくさん犠牲になった。私が話を聞いた元移民の日本人の中にも、船ごと沈んでいった兄弟や親を失った人の話を聞いた。ボートが足りず、一部の人しか逃げ出せない。勇気をだして海に飛び込めると助かった者もいるが、飛び込めない子供たちもたくさん犠牲になった。生き残った者たちの声を聴いてきた。祖父が部品をおさめた魚雷は、どこの海で誰を殺したか。アメリカ兵は確実に犠牲になっているだろう。もちろんアメリカで涙を流した家族がいただろう。民間人ではなく兵ならばよいのか。戦時といえど胸が痛い。
いつのまにか貧しくなった日本は、各自投資で資金を増やせという。投資信託を始めよと郵便局でもすすめられる。私はなかなか手がでない。世界から戦争がなくならず、軍事企業が売り上げを伸ばす世の中で、「順調な企業」に軍需企業を含む企業が入ってくることは、目に見えている。知らないうちに加担する。知らず死の商人の末裔に生まれたように。知らずその富の恩恵を間接的に受けて生きてきたように。まじめすぎるよという人もいる。ただ私は、家族を魚雷で亡くした人々の声が耳から離れない。豊は戦争中、富を蓄え造船会社を興す。その富が政界進出の足掛かりになっただろうことは、想像に難くない。ただ資料によれば、豊はその富をただため込みはせず、次世代へ投資した。東京でも高知県出身の学生の寮のために土地を用意したのを知っている。そういうことがせめてもの救いだと、一人須崎図書館で思う。

 

高木啓夫『土佐の祭り』を眺めていると、鳴無神社の秋祭りのことが気になった。「チリヘッポー」という歌を歌う、幼児を神がかりにする祭りとある。『南路誌』に「敷地の祭りとす」という記載あるも、「敷地祭の意味は明らかでない」と高木氏のコメントがあり、思わず鼓動が速くなる。私は今回の2023年の須崎への招聘について不思議な流れを感じていた。2022年の年始私がいたのは長野の浅間温泉である。そこの「御社神社春宮」で撮った写真にシャボン玉のような大きな虹色の光が写った。1枚でなく2枚。1枚は道祖神と書かれた石の前だった。面白いことに近年こういう光が以前より写真に映るようになった。そういう目に見えぬものの世界を感知できるアーティストの知人がいる。出雲在住のジャズピアニストであり世界の民族楽器を使いこなす歌島昌智さんだ。彼に画像を送ると、「蓑笠の精霊みたいなものが写っていて、サホさんに親近感を感じてるみたいです」と返信があった。「蓑笠の精霊」とはなんだろうか。ここから私の、諏訪の神とされるシャクジ神(ミシャクジ神、宿神)、道祖神と蓑笠とをめぐる勉強が始まったのだ。何冊か本を読み漁り、最も感銘を受けたのが中沢新一『精霊の王』だった。シャクジ信仰をめぐるこの本の後半、話は諏訪を離れていく。

 

愛媛県の宇和島から高知県の西南部にかけては、かつて「幡多郡(またしてもハタである)」と呼ばれていた。この地帯の文化は古くから、九州の大分地方と深い関係を持っていたと言われている。香春神社(田川郡)から宇佐神宮にかけての広い地帯は、五世紀頃からはじまった朝鮮半島からの移住によって形成された、いわゆる「ハタ(秦)氏」による大規模な開発が進んでいた。このあたりから宇和海を渡れば、すぐに四国である。南西四国の幡多郡は、おそらくは九州における秦氏の勢力と、無関係であったとは考えられない。

 

中沢氏は、旧「幡多郡」に白皇神社と八坂神社が多く分布することを指摘し、四国南西部の地図を載せていた。そこには、たしかに旧幡多郡の東端として須崎の名が確認できたのだ。
この本に感銘を受けて、私は中沢氏にファン・レターを書いて末尾にアドレスを書いておいた。するとアドレスに中沢氏より返信が来た。それが2022年7月の話である。そしてその翌週に今治の真鍋電機のホールでのライブがあり、その打ち上げに、斧山さんが参加しており、来年の須崎の「現代地方譚」にぜひ、という話をされたのである。私にとっては、浅間温泉に招聘され、蓑笠の精霊に出会ったところからの延長線の導きとしか思えなかった。 
新羅の語感を連想させる「シラ」と関する白山神社が渡来系の人々に信仰されてきたように、白皇神社もまたその名残であろう。中沢氏は、こうした「シラ」の信仰とシャクジ信仰、それから八坂神社の荒神スサノオの信仰が、この地域において密接に絡み合い重なり合っているのではないかという推論を展開している。八坂神社に祀られるスサノオは、出雲の神として知られるが、新羅の神であった可能性も指摘されている(荒木博之「隼人源流考」『南西日本の歴史と民俗』)。そして旧幡多郡の八坂神社の中にはスサノオとともに「姉后神(シクジン)」を祭るところもあるというのだ。この隠されたシャクジ信仰には地方によって多くの漢字があてられる。宿神、祝神、敷神、敷地権現、姉后地権現などである。私の東京の住まいの近所を流れる石神井(シャクジイ)川も、シャクジ信仰にちなむことで知られている。私が注目したいのは「敷神、敷地権現」として旧幡多郡で祀られていた形跡だ。思い出してほしい。鳴無神社の秋祭りについて「敷地の祭りとす」と記し残されていたのである。そして、その意味が地元の郷土史家にももはや予想できないほど、この地においてシャクジ信仰は秘められ、忘れられたものとなっているのである。
鳴無神社の秋祭り「チリヘッポ」の行程については、ダイドーが長尺のドキュメンタリーを作ってyoutubeに公開しているので参考になる。祭りの日まで、幼児は潔斎のために頭屋でおこもりをする。祭りの日はそこから出て、地に足をつけないよう大人たちによって運ばれる。幼児は男女二人であり、男児は行児、女児は斎女として社で「神の子の結婚」が行われるという説明がなされる。動画を見て気になったのは行児の頭に白い帯のようなものが巻き付けられて結ばれており、これによって頭巾をかぶったような外観になっていることだ。斎女にはない。幼児の神がかりときいて思い出すのは、諏訪神社の「御頭祭」でかつてあった「お神使」と呼ばれる男児への神がかりの儀式だった。ミシャグジには童神のイメージがあり、その体現者として男児が選ばれている。今は短縮されているが、昔は長くおこもりをして、身を清めさせられた点も両者同じである。諏訪では鎌倉時代まではこの男児が抹殺されていたとされる。次第に男児の生贄については遠慮が生まれて形式のみ残り、それも江戸の終わりとともに消えた。童神が頭巾様のものをかぶることについては、胎児が母体にいたころの胞衣を再現しているとされている。胞衣は世界中で神秘的な力を持つと考えられた。胞衣の代替として、諏訪では男児に蓑をかぶせてミシャクジおろしをした。鳴無神社で頭に白い帯を巻き付けられた男児についても根底に通じる信仰を感じる。
諏訪の儀式文化は実は、九州の文化に通じている。諏訪大社の神長官を代々つとめてきた守屋家の家系には、飛鳥時代に熊本の阿蘇氏が入り込んでいる。北村皆雄は、鹿児島清水町の諏訪神社大祭でも童神が祭りの中心であることに触れ、さらに阿蘇神社には霜祝といわれる童女神もおかれていたとしている(「薩摩の諏訪信仰」『諏訪信仰の発生と展開』)。鳴無神社の男女童神の形が最初からそうであったのか、より古い形態では男児神のみだったのか。小野重朗は、大隅の太鼓踊りや鹿児島の諏訪神社の少年を神がかりにする「稚児神の習俗」について報告しているが(『東アジアの古代文化別冊77』)、それを受けて荒木博之は「稚児神」の源流を、考古学的成果も交えながら朝鮮・新羅に求めている(「隼人源流考」)。いずれにせよ地理的により九州に近い旧幡多郡でこのような童神の祭りが残っていることは、文化の伝播を考えるうえでも非常に貴重であろう。

 

夜は居酒屋「一休どん」で川鍋さんと斧山さんと。お刺身も美味しい。泊っている一軒家の宿はトイレまで遠くて寒くて暗いが、あんまり怖くはない。こういうとき霊感がなく、鈍感でよかったと思う。トイレが明るくて便座があったかいことに救われる。

1月5日

 年始のため朝食をあてにしていた喫茶「サラダ」の営業が10日からとわかり、朝は川端通沿いの90才というおばあちゃんから、たこやきと「たいこまん」という今川焼を買う。その横の朝市でみかんと干し柿も買う。ローソンでナッツとチーズを買って、イートインコーナーの「持ち込み商品はご遠慮ください」という注意書きを見ながら、おばあちゃんのたこやきと干し柿とみかんを食べる。もちろんナッツとチーズも食べる。その後、昨日の記載が気になり、川鍋さんと鳴無神社へ。あとからやってきた森田鉄典宮司が、秋祭りで歌う「チリヘッポー」を歌ってくれるというので録音させてもらう。宮司は「楽譜にできるようなものではない」とおっしゃったが、一聴して音符は浮かんでくる。追分のような歌唱の複雑さはないので、仮に譜面化はできそうである。その後大谷の白王神社へ。勢井のムクロジ、うろが大きく迫力がある。詳細はわからず。川鍋さんのおすすめで須賀神社へ。花取踊りの歌詞が碑になっている。おおきな杉の木。本殿左手の三社の真ん中は竈戸神社。大谷の公民館で前館長の森光さんが詳しいと教えてもらう。森光氏を訪ねると、「私より福留さん」とさらに紹介を貰い、土佐くろしおJAで電話と住所を教えてもらう。電話してみると、福留氏はでかけるところだったが、白王神社については「神母(いげ)の神様」を祀ってあると教えてもらう。ここにきて初日に見つけた道祖神の論文とつながってくる。公式には猿田彦と書いてあるから、その左におかれていた社だろうか?猿田彦も「作田」がなまって「猿田」となったともいわれ、道案内の「ちまたの神」として「道祖神」的な性格も持つ神様だからゆるやかにつながっている。

 

市街のJAで仏花にクジャクアスターを買い、お馬神社のわきから曽祖父寺尾豊の父、白石純成の墓参りへ。眼科医ながら田舎医者らしく広く患者を診たとか、土佐藩の藩医を務めて江戸に上るときお供したらしいとか(しかし50の時豊が生まれたとしても明治維新時に20歳であるからどうだかわからない。維新後の旧殿様と関係があったということか)、豊が立候補したときは、白石医師のせがれということで票につながったとか、親戚から聞いているが、詳しく調べられていない。来るのは高知市の親戚に連れてきてもらって以来2回目だが、奥行きのある山の地形を生かした墓所で、異界に迷い込んだような気持ちになる。豊さんの眠る、山の斜面を削って作った鎌倉霊園の平面さとはだいぶ違う。白石の墓はもう管理する親戚もほとんどいないと聞いている。苔むした墓にアスターを供えて水をかけた。

 

その後大家さんを訪問。小学校しか出ていないというが、郷土史家の一人として熱心にこの土地の歴史と向き合ってこられたことが伝わる。その後ピアノのあるシェアキッチンを借りて、チリヘッポーのアレンジをまとめる。キッチンでは女性が一人、おそらくアップルパイを作っている。りんごのにおいがたちこめており、味見がてら一口もらえないかなと思ったけれど、特に何ももらえなかった。去りがてら少し自己紹介をしてみたが、もらえなかった。世の中はそんなに甘くない。けれどわけやすさという意味で、クッキーだったらもらえたのかもしれない。録音は、パイの空気をぬくために女性が生地をたたきつける音が随所に入ったのと、空間の響きが美しくて予想外に面白いものになった。夕方は桑田山温泉。浴室が換気が良すぎて寒いので露天には出なかった。お湯の温度はちょうどいい。夜は魚貴でうつぼのからあげ、お刺身、くりの焼酎「ダバダ火振」などいただく。人の集まる場=駄場、四万十の火振り漁から作った造語、と後で調べて知る。

1月6日

朝は、昨日コンビニと朝市で買ったナッツ、チーズ、干し柿、みかんですませる。八幡宮を見ると、左の社は西鴨神社であると分かる。西鴨のほうがずっと古いようだ。もとは西賀茂かもしれない。図書館向こうの、白王神社を目指す。柳屋さんの向かい、金刀比羅さんと大善寺の高台の左脇の細い道を進むと白王神社。大善寺と金刀比羅さんの入り口が正面とすると、後戸といってもいいような位置。右奥に位置する今清神社も同様。白王神社の手前にあるのは大善寺の無縁仏。社の中を覗き込むと「西町常会」と紙のまかれた日本酒が供えられているのが見える。あたりの民家は古いものも多く細い路地が入り組んでいる。すでに住まれていない家もありそうだ。大善寺の山頂につながる避難階段は、新しく設置されたもののようだ。のぼってみると、頂上には金刀比羅さんと山の大神が共に祀られている。白い長毛の猫がぱっと茂みのがけにおりていく。がけをのぞくももう見えない。頂上から大善寺のほうに下る途中も、黒と白の猫が振り返って逃げていく。猫山だ。景色のいい下り坂のところでみかんをたべようとむきはじめるとお遍路の恰好をした30代くらいの男性が下から登って来たので、とっさにみかんをしまう。図書館再訪。「須崎の部落史」なる令和3年の市役所がまとめた分厚い本を閉架からだしてもらう。大正15年、苅谷地区が琴平と改称している。また苅谷は、真宗が多く、次いで真言。当時は草履や藁製品、埋め立て工事、鉄道工事などの労働者が多いと記載がある。

 

昼は斧山さんと合流。駅前食堂に入ると川鍋さん、福岡からいらしている川浪さん。横の席には現在まちかどギャラリーで個展準備中のマーシーもいるがこちらには気づいていない模様。しらす丼小となべ焼きラーメン小をたのみ、餃子を斧山さんとシェア。
其の後、下分の八坂神社へ。古くて趣があるが新しめのシャベルが社に立てかけてあり、手の入っている印象。右手にトイレもあるので、中で集うこともあるのかもしれない。(後日ここの写真を出雲の歌島さんに送ると”いろいろ写ってますね”とのこと。信仰が残っている場所には、みえざるものたちも集っている感がある)
さて、西町の白王神社について知るための手掛かりは、日本酒の巻紙に書かれていた「西町常会」だ。西町に実家があるという実行委員会の佐々木さんのアドバイスで、理髪店の吉岡さん経由で西町の町内会長吉村さんを訪ね、白王神社について質問する。昭和20年生まれの吉村さん、77才。子どもの頃は、この社はなく、町内にちらばっていた5カ所の神様をこの一か所にあつめて「五社さん」として祀る。そのとき白王神社とつけた理由は不明なので、調べておいてくれるとのこと。大谷に白王神社があることは知らなかったようで「ここだけだと思っていた。そりゃいかねば」と。五社さんとしてまとめられた神々は、道祖神のようなものでしょうかと聞くと、道端の、そのようなものではないか、とのコメント。その後、安和の話がでて、海軍の永田修身にちなんだ修身塾の話になった。修身塾については、初日の須崎図書館で寺尾豊のことを調べるなかで、安和という場所に永田修身にちなんで作ったらしいというところまではわかっていたが、具体的にどこなのかわからずにいた。吉村さんによれば、安和小学校になっているということだったので行ってみることにする。
安和小学校を訪ねると、校長先生が資料を下さる。厳密には小学校の戦後の移転先が修身塾跡だったということのようだ。百年史をみせてもらうと、小学校の移転前にあった場所は川内神母という地名で、驚く。さきの大谷の白王神社について福留さんが「神母(いげ)の神様」と言っていた「神母(いげ)」だ。おいげさまについては、1941年に桂井和雄氏が詳細な報告をまとめている(『土佐史談』第74-76号)。桂井氏が報告した戦前の時点で、すでに「廃れゆく常民信仰への一解明として、後生への参考に供したい」と書いている。軍国主義の時代、「お国のために」がスローガンの時代に、あやしげなほこらを含めて一つ一つ調査し、淡々と記録を残した研究者魂は天晴れだ。82年目によそ者が一人、その成果を受け止める。
伊気、伊毛、稲毛、稲気、畝丘樹下、御母と書いて「いげ」とよませるこの神様は、高知の農村のあちこちに散らばっている。面白いのは、この神様は「木を好み」、社やほこらの傍らに特徴的な木が植えられていたり、お願返しに植樹をしたりするということだ。加えて、陽石(男性器を模した石)を供えるケースもある。木とともにある信仰で、陽石を供えるのは、長野や山梨に多く残されている道祖神、シャクジ信仰との共通項だ。特に樹木と一体の社は、大樹を伝って神が社に下りてくるという諏訪の信仰でもある。桂井氏は、「イゲ」という言葉はそもそも「池」だった可能性を提示し、「須崎町池ノ内字神母」という地名の地に「伊気神社」があるように、「おいげさま」が「池」のつく地に鎮座している複数の例に触れている。安芸や香美、越知町野老山などにはそのまま「池神社」が存在するという。飲み水にもなり、田んぼにも欠かせない水を守る女神として「おいげさま」信仰は、かつて高知において、東日本の稲荷信仰並みに広まっていた。

 

安和小学校で見せてもらった資料によれば、修身塾は昭和24年からは農業研究所も併設されとあり、30年代くらいまでは大学のクラブ合宿、青年団の合宿などでよその人も利用していたので、「安和といえば修身塾」とよく言われたという。その跡地に安和小学校が移転したので、住民の印象も良いし愛着もあると学校側は分析している。その後、校長から詳しい人として名前を伺った山崎さんを訪ねる。斧山さんが豊さんのひ孫と紹介すると、リップサービスかもしれないが、豊について「須崎にとっては恩のある人」と。ただ、戦前の修身塾は海洋少年団の訓練場所だったから軍国主義だよね、と知的な人らしく指摘した。その後門田さんのところにも行こう、と山崎さんと玄関前を離れる。近所の田のそばにある安和天満宮のものだという石灯篭二つ。一つは扇に丸の形で、このあたりの家紋に多いという。向かいには遍路石。「是より五社まで六里」と刻まれている。五社神社は今でもあるといい、五つの社をまとめて高岡神社ともいわれるそうだ。中身の神様がかぶるわけではなさそうだが、西町の白王神社に入っている神様たちも「五社さん」だ。門田さんを訪ねると、斧山さんのお兄さんの時代に須崎小学校教頭をしたこともあるらしい。もともとは絵描き、今はハチミツづくりなどされているとのこと。ネオニコチノイド系農薬の使用について、高知県は他県と比べて割と規制が進んでいる。農業関係者や、はちみつづくりの人が尽力されたのではないかと推察するが、この時はその話はしなかった。名刺には安和小学校運営協議会長とあった。斧山さんが冷え切った体で、安和の海岸を見せたいと高台まで連れて行ってくれる。穏やかな湾の風景。幼いころよく訪れた伊豆の海を思い出した。
 宿に戻って、斧山さんが役所から借りてくれた昭和五三年刊の『須崎市史』の花取踊りの項を読む。「由来伝承」の項目に「皆山集」(土佐藩士の松野尾章行<一八三六-一九〇二>が編纂)が引いてある。花取の由来に二つあり、一つは花取踊りを伝えてきた里人が津野孫次郎吉良駿河守を攻るとき、祭に事寄城を乗取りしたことが、津野祭りの起源とする説。もう一つは花取城を踊り子に扮した計略で攻めたという次の説である。

 

 或説ニ云、幡多郡花取城を敷地某攻るに、兵士皆踊子となり刀を隠して城内に入て、刀 を抜て敵を打、終に城を落すより始る

 

計略の先頭に立ったのが「敷地某」また「敷地」だ。ここでは人の名前として出てくる。鳴無神社の秋祭りが「敷地の祭り」とされていることと、無関係ではないだろう。ここからは私の推論だが、おそらく「敷地の祭り」の意味が途中で見失われたように、須崎の「花取踊り」についても、古文書に「敷地」の記述を見つけても解釈に苦しんだものと思われる。こういう時「おそらく人の名であろう」とその時の古老が言えば、そこから伝統の物語が作られていくものだ。当初の意味が見失われ、のちの人の解釈によって物語が再創造され、伝わっていく例は枚挙にいとまがない。それにしても「皆山集」の記述は愉快である。「踊子」に扮した兵を率いた「敷地某」。シャクジが長らく芸能民に信仰されてきた芸能の神様という側面を知ってか知らずか、踊子たちを率いるポジションを与えられている。先日趣味でリサーチに訪れた兵庫の「坂越(サコシ)」もまたシャクジの名残という説があるが、ここの「大避神社」には秦氏(秦河勝)がまつられているのである。聖徳太子の同志ともパトロンともいわれたこの渡来人こそ、能楽のもととなった猿楽を伝えた人物で、芸能の神となっている。有名な観阿弥・世阿弥も、秦の子孫を称し、秦名を持っていたのである。雅楽の東儀家も河勝を祖としており、大避神社には東儀俊美が平成15年に奉納した絵馬も展示されていた。
シャクジ、敷地の神、スサノオと姉后神、おイゲさま、陽石、樹木と社、そして秦氏と「シラ」の信仰。何分、古い時代の忘れられた信仰のこと、推論の世界に入ってしまうけれど、大事なのはトピックごとの緩やかなつながりを把握しておくことだろうと思う。これから出会う何かのヒントがまた、新しいつながりを見せてくれるかもしれない。

 

19時から実行委員の皆さんと夕飯。おいしい料理をいくつもいただく。好きな料理を気兼ねなく作りたいから委員長になったという眞嶌さんが次々においしいものを出してくれる。こういうのが一番の贅沢だ。佐川の役場に勤めている柴さん、須崎市役所につとめているさしみさん、共に地方譚の演劇に参加しているとのこと。斧山さんもそうだけれど、生業のほかに、好きなアートにかかわり続けられる、そういう生き方ができるって素敵だよなあと思う。

1月7日

 柴さんとさしみさんと「ピエロ」でモーニング。店長はダンディ。スープ付きなのがうれしい。柴さんは文学座研修生だったという。もうすぐ夜須での公演が控えているとかで充実している模様。昨晩は酔って絶好調だったムードメイカーなさしみさんはドラマー。長女の、ホロスコープの読み方が深い話をしたら、二人とも鑑定予約してくれた。星読み修行中の長女は2月に連れてきたら喜んで鑑定するだろうと思う。

SUZAKI国際演劇フェスティバル

 

 

 

2022年10月に短期のリサーチに訪れた阪上洋光は次の本格的な滞在に向けて『SUZAKI国際演劇フェスティバル』という架空の演劇祭を企画した。しかし、予め用意していた3つのプログラムのうち、2つはほぼ機能しなかった。ステージ設営に使うつもりだったジョイントマットは、どことも誰ともジョイントすることはなかった。事前に準備したモノコトは相手を誘導していくものだと考え直した阪上は、予定していたプログラムを白紙にもどし、かかわった一人ひとりに関心を寄せ、観察し、個々の日常の姿を演劇の形へと再構築し、記録を重ねた。
001~012のナンバリングされたテキストは2度の滞在を時系列に振り返った阪上のことばである。

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001 きみ、アーティストなんか?


ひとりのアーティストとして須崎に滞在する。これ、ぼくにとってとっても大きなチャレンジでした。こわかったのかも? どうだろう? わ かんない。とにかく、ぼくはぼくを新しく見出すことができるのだろう かと胸が華やいでいた。

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002 出会いがしらを求めていた


 

ぼくが空想したもの。例えばそれは、準備し稽古し積み上げた演劇作品 の発表ではなく、もっとむき出しの、そう、突発的なもの。そんな演劇 っぽいなにかに出会いたいと思った。きっとそれって根源的ななにかだ ろう。きっとそれって、新しいけど前からどこかに、いやどこにでも存在したものなのだろう。それっていったいなんだろう? 果たしてぼく はそんな演劇っぽいなにかに出会ったとき「これこそが演劇だ」と喜べ るのか?

 

 

 

「独り言」2022年12月25日 の記録 約16分

市内在住の上岡さんはこの数年でまちかどギャラリーを頻繁に訪れるようになった。ワークショップなどに積極的に参加してくれるほか、折り紙の講師としてご協力いただく事もある。
軽度の障がいを自覚していて、そのことで対人関係への不安や、生きづらさを感じつつも日々の創作活動に喜びを見出している彼女が阪上洋光と打ち解け、これまで一人書き溜めていた「独り言」を見せたことをきっかけに今回の発表となった。

展示では「独り言」を読み上げる彼女と阪上とのダイアログを記録した映像が流され、傍らに自筆の原稿と折り紙の創作物が並べられている。

 

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003 うしろの正面だあれ?


それから考えたこと。須崎の子どもたちと遊んでみたい。ぼくが持ち込 める遊びは「演劇」しかない。だって「演劇」しか知らない。でも正直 「演劇」ってなんなのかよくわかってない。それからまた考えた。演劇 ワークショップはしたくない。学びの場っぽくして自分を誤魔化しませ んようにと誓った。誰かの役に立ちたくなっても、せっかくのこのチャ ンスをふいにして、自分を簡単に「手慣れた手法」に売り渡してしまい ませんようにと注意喚起した。無名の自分を恥じてひとに大きく見せた り、誰かの後ろに逃げ込みませんようにと自分を笑い飛ばした。

 

 

「SUZAKI国際演劇フェスティバル」2022年12月29日 の記録 約20分

「SUZAKI国際演劇フェスティバル」当日は子供たちが思い思いに発表を行う場となった。偶然にも時を同じくして地区の老人会で使われていたという舞台幕が寄贈されたことから、これを背景として即席の舞台が設けられ、集まった観衆の前でそれぞれが胎内記憶を話し、即興の寸劇を始めたり、阪上がインタビューする形で将来の夢が語られた。

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004 Q&Q


ぼくはぼくの劇を作ろう。子どもたちにインタビューしよう。自分の名 前の由来、この町のこと、好きな子のはなし、家族のこと、うれしいこ と、くやしいこと、将来の夢、いま大人たちに思うこと、防災のこと、 海が好きか、空が好きか聞いてみよう。生まれた時のこと、生まれる前 のこと、反抗期について、大人になること、結婚について、出産につい て、いのちについて、老いることについて、死ぬことについて訊ねてみ よう。好きな食べ物、嫌いな食べ物を教えてもらおう。言われてうれし いことは? 言われたら恥ずかしいこと、いままでやった一番ひどいい じわるってなに? いままでやった一番大きな親切を覚えてる? 君は須崎が好きか? どこが好きか? 君は須崎がきらいか? なにが きらいか? 君は家族が好きか? ねえ、君は君が好き?……

 

 

 

朗読—
草稿「お掛けください」 約4分
SUZAKI国際演劇フェスティバルの会期中、須崎市内の小学校では感染症が拡大。自粛ムードが漂う中、一人まちかどギャラリーで参加者を待つ間、そわそわとした気持ちの中で台本を書いた。

 

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005 胎動


10月。須崎へ下見に向かう列車の中で子どもたちと出産芝居をやろうと思いついた。自分で膨らませた風船をお腹に忍ばせ男も女も妊婦になるんだ。そして、お腹の子どもについて語るのだ。いいじゃない。面白そうじゃない。自分で自分を産んでみる。どんな子に育てたいのか考えてもらおう、どんな町で暮らしたいのか語り掛けてもらおう。親の立場でお腹の中の赤ちゃん(つまり自分自身)に語り掛ける。これが、須崎でぼくがやってみたいこと。

 

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006 さっかん通信


下見のための須崎滞在記は自身のブログに残したので割愛。 「現代地方譚10」というタイトルで9回に分けて記録しています。 (リンク先が別ウィンドウで開きます)

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007 自称流しの国際演劇フェス師


大阪に戻って数日経った頃、実行委員の方々がズーム会議を設けてくだ さった。一回目の会議で自分のやってみたいことは「演劇フェス」なの だと大発見をする。フェスの名前も決まる。
『SUZAKI国際演劇フェスティバル』
ぼくは「自称流しの国際演劇フェス師」という肩書きを捏造することに した。

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008 SUZAKI国際演劇フェスティバル レジメ


以下、転載【現代地方譚10】阪上洋光の場合……

 

■プロフィール
阪上洋光/sakaue hiromitsu 1978.12.8~ 日本/Japan
自称「流しの国際演劇フェス師」(劇作家・演出家・俳優・演劇教師) 高校在学中に故秋浜悟史氏の劇表現に出会い衝撃を受ける。大阪芸術大 学大学院芸術制作研究科修了。知的障がいを持つ方々との劇作りが大好 き。ずっと阪上洋光の劇表現を探求している。いちびり一家□すぺーす 代表。

■序
2001年に劇団を結成。2020年以降は実質活動休止。我々にとっ て新型コロナウイルスはきっかけに過ぎない。現状は起こるべくして起 きたと納得している。活動休止中に集団名から「劇団」を外し「□」を 発見した。

■俺の目に世界は演劇フェスに見えてんだぜ!
――というわけで自称「流しの国際演劇フェス師」を名乗ることにした。 これは実行委員の眞嶌直子氏、佐々木ホゲット氏とのオンラインミーテ ィング中に決まった。大笑いした。だから覚悟できた。自身のやってみ たいこと、感じてみたいこと、確かめてみたいことをお話ししていると 自然に流れ着いた。

■『SUZAKI 国際演劇フェス』
あえてSUZAKIと表記。ZはSを反転させたデザインにして頂く (眞嶌家次男のアイデアに感謝)。そして、このインチキフェスが今回の AIR作品となる予定。プログラムは以下の通り。
『シリーズ・暮らし(出産)』
『シリーズ・暮らし(反抗期)』
『シリーズ・暮らし(わが町)』
『即席芝居~NIWAKA~』
……いずれも出演者は市民有志
『占いの館』
……阪上の無料占い
追記:滞在中に企画書を更新させていき、企画書を再提出する。

■SUZAKI国際演劇フェスについて
――世界は舞台 男も女も みんな役者――(シェイクスピア) ぼくは今回「ひとはそれぞれそのままに、すでにひとつの演劇なのだ」 という価値観の実践を試みたいと思っています。ぼくの今後の生きる指 針となる「俺の目に世界は演劇フェスに見えてんだぜ!」という眼差し を鍛えたいと思っています。
何者にもなれなかったぼくに、ある日突然「アーティスト」という役を ここ須崎で演じるチャンスが巡ってきました。ぼくは飛びつきました。 自信もなけりゃ、余裕もない。でも、この「ない」を丁寧に見つめてい けば、ぼくはいよいよ「本当の自分」に目覚めるかもしれないと直感し ました。
まず須崎でやってみたいと思ったのは、子どもたちとの劇作りでした。

できるだけうそっぱちで、ありえなくって、だから唯一無二の存在感を 放つ芝居。
――子どもたちによる出産芝居。自分を自分で産み直す芝居。
男も女も身重になって、自分をもう一度お腹に隠して「名付け直す」ところから始めよう。それから、耳に残っている「暮らし」の中の言葉を再利用しせりふにしたい。親のお小言なんかをそっくり真似て演じてもらおう。自分たちで親になる不安を想像してみる。気持ちに寄り添う言 葉を探そう。どんな子どもに育てたいか夢を語ろう。子どもが暮らす須崎の町はどうあって欲しいのかなど、お腹の子ども(自分自身)に語り 掛けてもらいたい。
例えば、練習や稽古に頼れない即日発表がいいかなぁ。あ、でも準備のための作戦会議を一回、そして約束の日に集まって発表する。お客に見せてもいいし、記録だけを残してもいい。あとでこっそり親たちがその 記録をアートギャラリーで観たっていい。もしも誰かから「生で見たかった」「ライブで観たい」と声が上がって、もしも役者がその気になったなら――、先のことはその時考えていけばいい。それに、もうやり方も 判ってるから、自分たちで企画して公演をすることだって可能なはず! ……と夢は膨らむ。以上が先述した「シリーズ・暮らし」の劇の構想です。この番組をメインに据えて、似たような企画を同時に呼び掛け、うっかり出会ったみなさんと「即席芝居」で遊びたい。生活がそのまま劇になる。ぼくはアートギャラリーに常駐し「待つ」。祭りの語源は「待つ」だと聞いたことがある。このような偶然大好き。そして激しく納得している。待つ、祭り。古来ひとは神が宿るのを待っていたのでしょう。ぼ くは待たず――、須崎へ行く!

2022・11・14 文責:阪上洋光

当初構想された「SUZAKI国際演劇フェスティバル」の概要

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009 演劇はひとりではできない


ぼくはすっかり浮かれていた。なにか新しい試みに着手したような気がして、まだなにも始まっていないのに、なにもやっていないのに、もう満足していた。しばらく演劇を作るという行為から離れていたから演劇的身体感覚が鈍っていたのだ。二回目のズーム会議のあと、ようやく思っただけではダメなのだと気づかされる。それは会議中のなんでもない 会話の中で起きた。
「ターゲットはどこなのか?」
「だれに来てほしいのか?」
「どこに呼びかけるのか?」
「どこに協力を仰ぐのか?」
ぼくは、なにも起きなければ起きなかったで構わないとおもっていた。

実行委員のみなさんは、なにも起きなければ起きなかったで構わないか ら、できるかぎりのことはやってみよう、と思ってくださっていた。 雲泥の差とはこういう時に使うのかもね。
「別でチラシを作成し呼びかけましょう」
「デザイナーに相談しましょう」
「子どもたちを呼ぶために親を安心させる文章も大切です」
この会議をきっかけにぼくの取り組みははっきりしたし、一生の宝物に なるすてきな募集チラシが誕生した。(別紙参照)
演劇はひとりではできない。身に染みた。感謝した。

 

「SUZAKI国際演劇フェスティバル」フライヤー

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010 さっかん通信 その2


SUZAKI国際演劇フェスティバルの記録もブログに残した。 「即席演劇フェス」のタイトルで11回あります。(リンク先が別ウィンドウで開きます)

 

「SUZAKI国際演劇フェスティバル」当日に掲出された立て看板

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011 館長はすごい


最終日、ギャラリーの閉館時間をもってフェスは終了した。 ぼくは持ち込んだ僅かなものをカバンに仕舞い、使わなかったジョイン トマット9枚を館長にお見せした。これは3×3で床に敷いて小さな舞 台として使用するつもりだった。つまりメイン会場になるはずだったも の。
「ギャラリーでなにか使い途あれば使っていただけませんか?」 「展示で使いましょう」
ぼくは意味が分からなかった。なにかを展示する際の緩衝材にでもご活 用くださるのかと思った。
「準備してきたけど使わなかったものとして展示しましょう」
館長はすごい。ぼくが体験したすべてをたった一言で言い表してしまっ た。ぼくが準備し事前に考えたものはことごとく意味をなさなかった。 それが「SUZAKI国際演劇フェスティバル」だった。
館長はぜんぶご存じだった。ぼくがここでなにを楽しみ、なにに戸惑い、 なにを発見し、なにに驚き、なにを喜んでいたのかを。

 

ジョイントマットの展示

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012 阪上洋光を生きる


暇つぶしくらいにはなるだろうと、いたずら半分でメニューに加えた 「占いの館」はぼくの予想を裏切り大好評だった。ご参加くださった皆 様ありがとうございました。おひとりずつの鑑定を通して、とても魅力 的な物語に出会えました。あの時間もやっぱり「演劇祭」でした。
結果のために他者と関わらない生き方って、ぼくはやったことがない。 ぼくにとって演劇がすべてだったから。演劇は、結果がすべてだから、 上演できたものがすべてだから、その瞬間のためになら、なんだって辛 抱できたし、鬼にも蛇にもなれた。そんな風に思い込み、自分の価値観 を他者に押し付け、コントロールし、無理強いする生き方を好んでやっ てきた。そして、他者を傷つけながら、その何倍も自分自身が傷ついて いると大げさにのた打ち回って、みんなの「SOS」を封殺してきた… …らしい。うそやろ? まじで? いま、この文章を書きながら、この 真実に気づいて、ぼくは愕然としている。
須崎の町は、空が近い。海が近い。山が近い。ひとが近い。魚がうまい。 風がぼくを吹き抜けていく。ぼくはここで、演劇に出会った。
ぼくがずっとずっと、ずーっと探していた演劇。それはぼくだった。 ぼくは、ぼくを生きる。阪上洋光を生きる。
仕方ない。それよりほかに方法がない。
どうしよう、こんなにも感動的なのに、なんて陳腐な文章だろう? 仕方ない、ぼくは陳腐なのかもしれない。それなら、それでいいかもし れない。ぼくは自分が陳腐だって知らなかったのだから、新しく陳腐な んだもの、仕方ない。そして、面白い。
アーティストって、こうして「自分」を生きる覚悟をした人のことじゃ ないの? ぼくは、このプログラムに参加し、終えて、いま、やっと、 このプログラムの入口に立てたみたい。
須崎でぼくが生まれた。
2023年1月19日

 

 

 

「占いの館」2022年12月21日(水)~29日(木) の記録 約7分

オラクルカード、日本の神様カードによる占い術を見様見真似から会得していた阪上は演劇フェスティバルの余興のつもりでプログラムの片隅に加えたが、蓋を開ければこれが一番の人気企画となり、連日阪上の占いを希望する人が後を絶たなかった。
通常は当事者同士で秘匿された空間で行われる占いが、ここでは衆目を集める場で開示されていた。誰かに成り代わり、相手に投げかける阪上の言葉と、それに頷き涙を流す聞き手。漠然とした不安を抱える人々が包摂的な話者の立ち居振る舞いを通してカタルシスを得る構造は舞台演劇のような大きな仕掛けと個×個のやり取りも同じ軸線上にあることを示しているようにも思われる。

展示では実際に使用された占いカードを机上に並べ、阪上が座っていた席に置いたタブレットで占いをしている阪上を抜き出した映像が流される。

作品鑑賞会

作者の滞在時のエピソードなどを交えながら、各作品の成り立ちをご紹介します。

日曜市で朝ごはん

60年以上の歴史を誇る街路市で食材を買い回り、皿鉢に盛り付けその場でいただく朝食会。

現代地方譚 × ロイロイまち歩き

これまで「現代地方譚」では空家や、使用されなくなっていた地域の魅力的な建物を展示会場として利用し、来場者がまちを回遊する展覧会を行ってきました。この取組みをきっかけとして新たに入居が決まったり、遊休施設を改修し、活用したりする動きが活発になりました。しかし住民の高齢化、建物の老朽化に伴い、閉店した店や取り壊され更地となってしまった場所も増えていっています。現代地方譚第10回目の開催を区切りとして、これまで展示会場等で使用した場所を訪ね、入り組んだ裏路地を覗き歩きながらこの10年の町並みの変化を感じ取りたいと思います。

鳶の目線からまちを見る⁉ ―連凧づくりと凧あげ空中撮影

海のまち須崎の上空ではいつも鳶たちが優雅に舞っています。彼らにはこのまちはどのように見えているのでしょう。みんなで凧を作り、繋いで連凧にします。出来上がった連凧を富士ヶ浜で揚げてみましょう。凧に小さなカメラを取り付けて空中撮影にも挑戦します。

寺尾紗穂ライブコンサート

「現代地方譚」では地域の風光明媚な景観とともに音楽を楽しむ野外コンサートを開催してまいりました。2018年の桑田山 雪割桜の里での環ROYを皮切りに、2020年には浦ノ内湾を望む鳴無神社でイ・ラン、昨年は夕暮れ時の港湾区域でVIDEOTAPEMUSICほかによるライブが行われています。

 

今年は須崎にも縁の深いシンガーソングライター、寺尾紗穂さんをお招きします。

会場は昔ながらの体育館。専用のホールができる以前は度々コンサート会場として使われた、市民にとっては思い出の場所です。残念ながら、老朽化により数年後には取り壊しが決まっています。

須崎の歴史にひっそりと佇むその場所で、寺尾さんの歌とピアノに浸ります。

 

12:30開場 13:30開演